2009年5月アーカイブ

Samba,Samba,Samba

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パゴージ・サンババンド『バランサ』観てきた。というより一緒に歌い、踊ってきた。
裸の音楽っていいな。メインの歌のDENさんは『いやなことがあった時に、悲しい時にこそサンバを歌い、踊ろう。サンバはそういう音楽なんです。』と言ってた。
お金も入らない、体も少し壊している。俺の生活はなんとかというよりももはや会社でいったら倒産なんだけど、ますますサンバやブルースに近いということさ。

しばらくはそういうことでライブには行けないし、遠いところのリハとか、ホーダさえあまり行けないような感じだけれど。しばらく亀のように暮らせたらと思う。お金使わんように。

俺なりに攻撃的に戦うつもりだけどね。
その上で今日のサンバにはパワーもらったね。
こうでなくっちゃね。
全般的にうたには言葉が入るから、音楽に意味性、意見というものが付与される。明確なメッセージだ。言葉の力これはうたの特権である。
もちろん音そのものにも意味性というものがふされるものもある。
合図、トーキング・ドラム、モールス信号のたぐいである。
いわゆるインストに関しても作者がインスピレーションの由来や背後のある思想なりを語ったり、批評家たちが勝手に方向づけをしたり題名などによって言葉が入ってしまうと意味性がふされてしまうこともある。

そういうことに賛成でも反対でもない。

意味性を付すこと、分類してしまうこと、種明かしをすることなどこれは当然の帰結のように感じる。人間抽象のみでは耐えきらないし、不快、不満なのであろうから。

外国語の歌の場合、特に理解できてない言語の歌の場合、その辺はあいまいになりよ抽象寄りに聞く、歌うことになる。インスト的に扱うという場合をたた見かけます。それはそれでしゃーないんだけど。知らないことで良さが半減するのかはたまた知ってしまって幻滅するのか。

まあつまり歌うたいは言葉、物語、詩を大事にしてほしいと個人的にそう思う。
歌うというからにはその物語、考え、印象を語りたいということを前提にしてほしいなと個人的に思うのだ。

まあ当たり前のことかもしれないけどうたをつくっていてそのことを強く思ったのでメモがわりに。

ではうたがない音楽の特権はやはり無意味性なんだろうか。
最近、うたをつくっている。
歌詞がむずかしい。
テーマを設定するがそれに囚われすぎなのか、メロに合う詞てなかなか浮かばない。
語呂合わせだと軽すぎたり。
意味を持たせようとしたら平凡すぎたり。
むずかしい、、、、。

ジレンマ

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理想と現実。

時間とお金。

己と他者。

受けることと与えること。

犠牲と報酬。

義理と愛情。

こっちを立てれば、あっちは立たず。

それにしてもこういうジレンマのような二極化とかてんびんにかけるみたいな考え方というのはやはりおれも周りも近代西欧的世界観の覇権の支配化にあるということなんだろうか?てっとりばやくて楽だもんね。こういう考えで進めるって。

仮にこういう考えからおれが抜け出せたからといって。周りとは調和がないんだもんね。
悩んじゃうよ。

きょうはインフルエンザの影響でお仕事お休みです。時間はあるけど無給です。
世の中、本当感染しやすいよ。

気高い孤独

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カー・ラジオから
この歌が飛び込んできた。
歌詞のフレーズに心響く。

もしも君が気高い孤独なら

その魂を空に広げて

雲の切れ間に

君のイナズマを

遠く遠く解き放ってやれ

、、、、、、。

もしも君が気高い孤独なら

その魂を空に広げて

もう一度

どうしようもないこの世界を

強く解き放ってやれ

、、、、、、。


佐野元春、楽曲『君が気高い孤独なら』より


俺は気高い孤独なのだろうか?自問する。


気高い孤独や沈黙がやがて意味をもちはじめる。

俺もそんなことを願うひとりだ。

清志郎さんと僕

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一見関係なさそでしょ。
中学校の時、勉強もせんと友達の部屋いって『雨あがりの夜空に』を何度も繰り返してラジカセで聴きながら、
不埒な本を読み、不埒な話を真剣にやってたことを思い出した。

今日は何をするにも哀惜の念が根底に流れる。

いらいらも。ひどかった。

やるせないですね。
ぶっとばそうか。

ストレートなあの声わすれません。

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