その老婦人は車の中で、俺が何を言っても答えてくれない。
耳が聴こえないのか、意味が理解できないのかどうかわからない。
俺が建設中の建物を指さして話しているとき、
少し体を動かして反応してくれたように思った。
『きっと娘さんが待っておられますよ』と言ったときも。
少し表情が和らいだように感じた。
家の前で傘をさし、手を差し伸べおりていただく。
足腰の力が乏しくなりそうしないと立ち上がることができないのだ。
迎えに出てくださった傘をさす娘さんに抱きかかえられるようにして、
雨の中、確かな言葉で『ありがとう』といってくれた。
その表情は柔らかでねぎらいの気持ちに満ちている。
雨の中、車が出るまで同じ表情で見送ってくれている。
その姿が残って帰りの車のなかで泣けてきた。
その人は多くの言葉を忘れてしまったのかも知れないが
大切なことを忘れてはいない。
俺はまだ少しの言葉や方法を覚えることができるかもしれないが
大切なことを忘れていないだろうか。
多くのことの中で大切にしなければならないことが埋もれていないだろうか、、、。
人の顔といっても、(見たことある表情ばかりだから)もうそんな表情には出くわすまい。と思っていても、
実際、ご老人のねぎらいの表情を見て、あとで思い出してなきそうになること、僕も経験あります。