音楽の最近のブログ記事

私のパソコンのデスクトップは一面にアイコンや色々なファイルやらが散らばっている。
この状態はこのところの自分の暮らしぶりを象徴してるかのようだ。
でも物事、情報のカオス状態を悪いことと考えてるのではない。
整理をしただけで仕事をした気になっているより、懸命に働いてちらかってるほうが健全かもしれないと思う。言い訳のように聞こえるかもしれないが。
なにしろ慌ただしくて、ブログも書けないでいたので10月半ばからのトピックスをちょっとメモがわりに記録しておこうと思う。
ブラジル映画祭が今年から大阪でもおこなわれるようになって『Cartola』,『Pertificando』,『OMisterio do Samba The Mistery of Samba』の3本を鑑賞。カルトーラは買い物にでたら2日も帰らんような人やったんや。ボヘミアン。『Pertificando』では日本人がブラジル音楽
をやることについていろんな意見が興味深かった。自分としては、あんまり線引きをして物事考えたくないのでブラジル音楽命みたいなこだわりはないつもりだが、魅せられているのは確かで行動であらわれてるな。贔屓にさしてもろてる。勉強さしてもろてるというところかな。前日に監督と主演の阿部浩二さんにお会いできたこともとてもよかった。伝統に根ざした7弦の演奏はさすが安定感があります。『OMisterio do Samba The Mistery of Samba』ではやっぱサンバは労働者のもんよて思った。この作品は演奏の部分の編集もとてもよかったな。
あそう興福寺に阿修羅も観に行った。しなやか、コンパクトでいて広がっていて、静かで強いいいね。表情豊かな十第弟子も見事。観にいったのが夕方、日の暮れかかったころでその光の具合も絶妙だった。こういう像に拝む訳ではないけれど近くなんでまた是非来年ゆっくり観てみたい。
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昨日はKawoleさんとの初のライブだった。今回は準備の時間がほとんどなかったが遠いところ自宅まで2回も訪れてくれたり、詳細な点まで綿密な計画でのぞまれる彼女の真摯な姿勢に感銘をうけた。とはいうものの小生ギター離れがすすむ昨今、ご迷惑をおかけしたと思う。こういう目の前のしなければならないことをせずに、どうしても曲作りとか他の事に頭がいってしまって楽器の練習がおざなりになってしまっていることは反省しないとね。この日は山本のり子さんの対バンで彼女の演奏を聴いたことも強くそう思った理由だ。阿部さんにしても、のり子さんにしても職人的なこだわりと安定感がある。それは意識的な練習の賜物なのだ。もしこれからも楽器を人前で弾いていくんだったら頭切り替えて練習にも時間使わんとな。とはいうものの今はオーケストレーションやプログラミングもすごくやってみたいなと思ってる。まあ、切り替えと整理が大事ということかな。あとnu thingsという店ははじめてだったけど広めで天井も高く、気持ちいい響き。慣れないせいかこういうところでPAによって増幅された音で弾くことには感覚的な戸惑いがある。とくに自分の場合は右手のタッチの加減(音の強さ、音量)に迷いが生じる。でもいままでピエゾを使って演奏した中では一番よくミキシングしてくれた日だったと感じた。あとはこういうシチュエーションへの慣れ。
早いもんで今日から11月に入った。次の土曜日にも京都北白川でアラノーヴォスです。
投げ銭やしよかったら覗いてね。
あいかわらずタイトな生活が明日から続くわけですがなんとか食らいついてゆくつもりです。


音としてある。

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最近、お世話になっているギター製作家のM氏の新作を試奏させてもらった。
その音の記憶から後々思うのは音楽としてある前に音としてあるということ。
音響としてあるだけで、それが美しいなら心に響いてゆくということ。
そのギターは内部構造に工夫がなされてあって、それによって倍音が豊かに響いていた。
弾いたときに色々な色が見えるようだ。結果イマジネーションが刺激される。
もちろん実用的に厳密にいえば向き、不向きの演奏スタイルはあるのだろう。
音響が長く残っていてよい音楽なら本領発揮するように思う。
モンポウ(スペインの作曲家1893-1987)作品なんかはよいのではないかと思った。あとで調べてみると彼は鐘の職人さんの家で生まれ育った人だったそうだ。
なるほど、鐘=音響、倍音だな。

Samba,Samba,Samba

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パゴージ・サンババンド『バランサ』観てきた。というより一緒に歌い、踊ってきた。
裸の音楽っていいな。メインの歌のDENさんは『いやなことがあった時に、悲しい時にこそサンバを歌い、踊ろう。サンバはそういう音楽なんです。』と言ってた。
お金も入らない、体も少し壊している。俺の生活はなんとかというよりももはや会社でいったら倒産なんだけど、ますますサンバやブルースに近いということさ。

しばらくはそういうことでライブには行けないし、遠いところのリハとか、ホーダさえあまり行けないような感じだけれど。しばらく亀のように暮らせたらと思う。お金使わんように。

俺なりに攻撃的に戦うつもりだけどね。
その上で今日のサンバにはパワーもらったね。
こうでなくっちゃね。
全般的にうたには言葉が入るから、音楽に意味性、意見というものが付与される。明確なメッセージだ。言葉の力これはうたの特権である。
もちろん音そのものにも意味性というものがふされるものもある。
合図、トーキング・ドラム、モールス信号のたぐいである。
いわゆるインストに関しても作者がインスピレーションの由来や背後のある思想なりを語ったり、批評家たちが勝手に方向づけをしたり題名などによって言葉が入ってしまうと意味性がふされてしまうこともある。

そういうことに賛成でも反対でもない。

意味性を付すこと、分類してしまうこと、種明かしをすることなどこれは当然の帰結のように感じる。人間抽象のみでは耐えきらないし、不快、不満なのであろうから。

外国語の歌の場合、特に理解できてない言語の歌の場合、その辺はあいまいになりよ抽象寄りに聞く、歌うことになる。インスト的に扱うという場合をたた見かけます。それはそれでしゃーないんだけど。知らないことで良さが半減するのかはたまた知ってしまって幻滅するのか。

まあつまり歌うたいは言葉、物語、詩を大事にしてほしいと個人的にそう思う。
歌うというからにはその物語、考え、印象を語りたいということを前提にしてほしいなと個人的に思うのだ。

まあ当たり前のことかもしれないけどうたをつくっていてそのことを強く思ったのでメモがわりに。

ではうたがない音楽の特権はやはり無意味性なんだろうか。
最近、うたをつくっている。
歌詞がむずかしい。
テーマを設定するがそれに囚われすぎなのか、メロに合う詞てなかなか浮かばない。
語呂合わせだと軽すぎたり。
意味を持たせようとしたら平凡すぎたり。
むずかしい、、、、。

ぎりぎりの美学

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本日、雨で野外でのショーロ演奏が流れてしまったので、ゆっくりと過ごす。
最近クラシックを聴くことが多い。しかし一般にそうとらえられる事が多いが小生にとってゆっくり過ごすこととクラシックを聴く事はそう関係ない。それにしてもクラシックという名称はだれが付けたんだろうかあまりいい名称とはいえないと思う。近代の作品もクラシック呼ばわりすることには抵抗を覚える。
この音楽は平均律の音楽の宝を秘めている。(勿論音楽は平均律だけじゃない!!!)
以前から印象派とかフランス6人組とかアメリカものなどを聴くことが多かったが最近はドイツものも聴く。全体的にいえばいささか暴論ではあるがフランスものなどは空気、自然でありドイツものは人工的建造物である。自分がやってることはフランス系に近いように思うんだけど、情動を好む日本人の血はドイツものを好む部分もある。

台所の蛍光灯がきれたので近くのスーパーへ車で出かけた。
FMラジオで弦楽が流れる。シェーンベルクの『浄夜』六重奏版だった。
心の声を表すような旋律が美しく歌う。ロマンをたたえながらも屈折してゆくメロディー、協和と不協和をくりかえし重なりあう旋律が独特のハーモニーを生み出す。意外なカデンツア。ブラームス的なもののオルタナティブだなこれは。美しいけどきれいごとだけで成り立っているのでないのが近代的である。この作品は1899年に書かれている。まさに19世紀の黄昏であると同時に20世紀にあふれだしていたるような曲である。調性があるのだが曖昧だ。明確にされる部分と意外な逸脱があるのだ。非常に緻密ながら後の諸作にみられる厳密12音技法などではない。
これは色んな意味でぎりぎりの美学である。腐る手前の熟した果実だ。

小生のような中年もいわゆるぎりぎりのところか手遅れかというところに何か美点を見いだすことができるんであろうか。そこのおいしいとこつかみたいんだけどな、、、、なかなか難しいな。

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(ピエール・ブーレーズ盤家にかえったらこの音源があったので熟聴。)
こないだN響アワーで見て気になった、ラフマニノフの『パガニーニの主題によるラプソディ』。それをきっかけにラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』,『交響曲第2番』などを聞き直している。同じ20世紀のロシアの作曲家プロコフィエフなどもそうだがにピアノの名人としても有名だったラフマニノフだが、作風はなるほどそういうものだ。しかしブロコフィエフが超絶的な音楽的快楽を追求したのに対して、少し前時代のラフマニノフの曲は確かに楽器の超絶した技法はみられるもののその背後にはロシア的とでも言うべきか重厚な曲想、そしてあふれるロマンティシズムがある。聴いてゆくとどの曲も多くの人が耳にしたことがあるであろう有名な節がある、キャッチーな仕掛けが施されているのだ。ラフマニノフの曲が映画、ドラマなどによく用いられることがよくわかる。最近ロシア(ソ連)を題材にしたものも読んだのでそういう風景も浮かんでくる。冬に聴いたのもよかったのであろう。そういう部分というのは先に生まれてそれが曲全体の動機になっているのか、それがそこまでつくってきてそこで浮かんだインスピレーションなのか、単なる引き出しにいれてあったもので合いそうだから使ったのかということを考えてしまう。
これまでユニゾンの多い厚化粧的なオーケストレーションは自分の好むところではなかったし、これからもそうかもしれないが、ラフマニノフのそれは許せるようになった。
もうすでに常識的となっているこのやり口からも学ぶところはあるように思う。
はるか彼方の低次元の離れた地点にたってそんなことを思う。
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(amazonにて購入したアルバム、いいですこれ。)
ネガティブな日記の次の更新はだいたい早いもんです。ぱーっと明るい話題に切り替えていきたいところですが実はまたいらっとしまして。
京都北白川行きの道です。車で八幡で第二京阪を通って名神にのり京都東で降りるべきところ。
第二京阪のジャンクションの表示のは名神の表示が2つに分かれているではないですか。
一つは吹田と名神ひとつは名古屋方面、京滋バイパス、と名神と2通りの表示です。
迷わず名古屋方面を選択しそのままいっても京滋パイパスだけで名神の分岐点などでてきません。その分岐が運命の分かれ道でした。小生はそのまま走ってやばい滋賀に入ってしまうと思い熊取ICで降りたのです。しかし道は山道然としてきたので、病院で京都北白川にゆく道をききましたそうすれば、名神にのるようにいわれたので、ひたすら田舎の道を走りました。すこし街ぽくなりました。でも右側はもう琵琶湖にそそぐ河口ぼい雰囲気になってきました。そう瀬田川です。やばい遅れるなとおもいコンビニで再び名神にのる道をききました。しばらくすると表示が出てきたのでゆくとその表示がとだえたので再びガソリンスタンドで北白川にゆく道をおしえてもらいました。それはこの先にある2つ目の信号を左折してまっすぐいって瀬田西ICからのって京都東でおりて早くいきたいんなら湖西道路を走って比叡山をこえてゆくようにいわれそうしました。この山道ではきそうになりましたが、なんとか降りたところが北白川だったので安堵しました。家を17時に出て現場到着は19時40分。予定より1時間以上遅い到着です。わたしは声を大にしていいたい。カーナビのない貧乏人にもわかるよう道路標示わかりやすくかかんかい!。いろんな無駄づかいしとるくせに肝心なとこちゃんとせんかい。

北白川では第二回ホーダ・ヂ・ショーロです。まあゆうたらブラジルのショーロ音楽の合奏のお勉強会です。
下の写真は前回の写真の写真で画像悪いけど。こんなかんじで輪になってやりまねん。ホーダというと輪という意味があります。

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とよくいいます。ものの本によるとそのつもりで練習して本番には"培った潜在的な感覚運動ループに身を任せよ、ということ・・・。"だそうです。
練習それ自体が表現となったものもある。練習曲(Etude)というものもそういうものかな。アカデミックな音楽分野のギターではヴィラ・ロボス、タレガ、ソルなどピアノならショパンやドビュッシーなどが有名であろう。ジャズ音楽ではジョン・コルトレーンのいわゆる"シーツ・オブ・サウンド"が思い浮かぶ。まあその辺の話はまた折りをみて話すことにするか、偉い先生方に任せるとして、
まあ練習、及びその方法は重要だということです。
防音室を持っている友達がご近所の方に『音楽されているのに全然音が聞こえない』といわれたそうだ。そりゃそうだろうと思ったがそれを聞いていただんながぼそりと『そら練習していないから』とつぶやく。そばにいた小生はツボにはまり笑ってしまった。がそれはかなり失笑も含んでいた。
わたしのような不器用なものに練習は特に必要です。家でする(ひとりでする)練習大事です。合奏なら会ってリハーサルではない練習をすることは重要です。どこに行こうとしているか考えながらテーマを決めて考えながらじっくりとメニューを作り、おこなう。そういう練習が日常のなかに浸透してゆくことは望ましい。
しかし練習ばかりできるような身分でもないですが。(身分・・・ど貧民。はては何もしないで無為に過ごす病気持ちか。そのどちらも。)
とはいえ先ほどは本番のつもりか?ということは別にして楽しい時間を過ごした。
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(写真:よく歌うサックス吹き●ovo氏)
 *意外とその声は若人のそれである。

デデイラ

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写真のこれをブラジルでは"デデイラ"というらしい。
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昔"サムピック"といっていた。(奥2つはまさにそれ)
小生にとってはサンバやショーロで7弦のバイシャリーニャ(低音のカウンター・ポイントやベースラインのようもの)を弾くとき使いたいものだ。昨年暮れに日本を代表するベテラン・ギタリストT氏よりいただいたの(写真右)しかしこれは本場のものなのでなくしたりしたくないのでお正月の課題としてこないだ自作した。(写真真ん中2つ)さすがこれを使うとでかい音がする。そして金属だと音の立ち上がりがよい。しかしスムーズに使うには修練がまだまだ必要。さらに指にフィットさせるにはもうちょっと試作品作らんといかん。
少しずつ使って慣れてゆきたい。これ使うとあこがれのヂノ様に少しでも近づけるかしらん?
T様ご親切感謝いたします。

abraço,
                   alamodinho

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